経営判断原則を理由に取締役の責任を否定した東京地裁平成5年9月16日判決を紹介します。

【事案】
本件は、野村證券株式会社の株主である原告が、取締役の責任を追及する株主代表訴訟である。野村證券は、平成二年三月、東京放送株式会社に対して有価証券の売買による損失約三億六〇〇〇万円を補填したが、原告は、この損失補填は野村證券の当時の代表取締役であった被告らが取締役としての義務に違反して会社に補填額相当の損害を被らせたものであると主張して、そのうち一億円を会社に賠償するよう求めた。

【判旨】
1 損失補填に至る経緯
(一) 東京放送は、平成元年四月、住友信託銀行株式会社との間で東京放送を委託者、住友信託銀行を受託者とし、期間を平成二年三月までとする特定金銭信託契約を締結して一〇億円を信託し、これに基づき住友信託銀行が野村證券に取引口座を開設して、有価証券の売買による東京放送のための資金運用が開始された。
 この特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引(特金勘定取引)においては、東京放送は、投資顧問会社との間で投資顧問契約を締結しておらず、野村證券から有価証券の売買に関する情報の提供を受けて、住友信託銀行に対し売買の指図をし、この指図に基づいて住友信託銀行が野村證券に有価証券の売買を発注するという関係にあった(いわゆる営業特金)。
(二) 東京放送のための特金勘定取引口座には、平成元年末ころ、約二億七〇〇〇万円の損失が生じていた。
(三) 平成元年一二月上旬ころ、大和證券株式会社が大口顧客の損失約一〇〇億円を肩代わりしていたなどと報道される中で、大蔵省証券局は、同月二六日、社団法人日本証券業協会に対し「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」と題する局長通達を行い、また、その趣旨を徹底するための業務課長事務連絡を行った。
 その内容は、証券会社の大口顧客に対する損失補填は、一般投資者の証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであり、証券取引の公正性や証券市場の透明性の確保の観点から、証券会社の営業姿勢の適正化が強く要請されるとしたうえ、証券会社に対し、法令上の禁止行為である損失保証による勧誘や特別の利益提供による勧誘はもちろんのこと、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むことを求めるとともに、特金勘定取引については、原則として顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること、具体的には、顧客が投資顧問契約を締結していることを確認するか、あるいは、顧客との間で運用に当たり売買一任勘定取引、利回り保証、特別の利益提供などの行為は行わない旨の書面を取り交わすかの措置をとって取引を開始し、又は継続することを求めるものであった。
(四) 平成二年一月ころから株式市況が急落し、この急落によって、東京放送のための特金勘定取引口座には更に損失が生じ、期間満了を待たずに取引を終了させた同年二月末ころには損失額は約三億六〇〇〇万円となった。
2 本件損失補填
(一) 平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達(その徹底のための事務連絡を含む。以下同じ)を受け、野村證券では、専務取締役で管理部門の最高責任者であった被告水内が担当者となって、営業特金の総点検を行うこととし、平成二年一月から二月にかけて、各営業部店の担当者が顧客との間で営業特金解消のための交渉を開始した。
 その過程で、顧客から運用実績に対する不満と営業特金の解消による評価損の発生についての苦情が寄せられたため、各営業部店長が調査して損失補填が必要と判断したものについて、同年三月上旬、被告水内に報告がされた。
 同月一三日、被告らが出席して野村證券の専務会が開催された。専務会では、被告水内から東京放送ほかの顧客に生じた損失について総額約一六一億円の補填をすることが提案され、了承された。
(二) 野村證券は、平成二年三月一四日、東京放送にルクセンブルク証券取引所に上場の大成建設ワラント(一ワラント額面五〇〇〇ドル)一二二五ワラントを代金合計六一万二五〇〇ドル(当時の為替相場で九一二六万二五〇〇円)で売り、同日直ちに、東京放送は、これを野村證券に代金合計三〇四万七一八七・五ドル(同四億五二八一万二〇六三円。ただし、国内取引税一三五万八四三六円を含む)で売り戻した。この結果、東京放送は三億六〇一九万一一二七円の利益を得、これによって営業特金の運用による損失が補填された。
3 公正取引委員会の勧告
 公正取引委員会は、平成三年一一月二〇日、野村證券ほか三社の証券会社に対し、顧客との取引関係を維持し、又は拡大するために損失補填を行うことは、不公正な取引方法の一般指定九項(正常な商慣習に照らして不当な利益をもって、競争者の顧客を自己と取引するように誘引すること)に該当し、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)一九条に違反するとして、同法四八条二項の規定に基づき勧告を行い、四社とも勧告を応諾した。

(善管注意義務、忠実義務違反について)
1 取締役は会社の経営に関し善良な管理者の注意をもって忠実にその任務を果たすべきものであるが、企業の経営に関する判断は、不確実かつ流動的で複雑多様な諸要素を対象にした専門的、予測的、政策的な判断能力を必要とする総合的判断であるから、その裁量の幅はおのずと広いものとなり、取締役の経営判断が結果的に会社に損失をもたらしたとしても、それだけで取締役が必要な注意を怠ったと断定することはできない。会社は、株主総会で選任された取締役に経営を委ねて利益を追求しようとするのであるから、適法に選任された取締役がその権限の範囲内で会社のために最良であると判断した場合には、基本的にはその判断を尊重して結果を受容すべきであり、このように考えることによって、初めて、取締役を萎縮させることなく経営に専念させることができ、その結果、会社は利益を得ることが期待できるのである。
 このような経営判断の性質に照らすと、取締役の経営判断の当否が問題となった場合、取締役であればそのときどのような経営判断をすべきであったかをまず考えたうえ、これとの対比によって実際に行われた取締役の判断の当否を決定することは相当でない。むしろ、裁判所としては、実際に行われた取締役の経営判断そのものを対象として、その前提となった事実の認識について不注意な誤りがなかったかどうか、また、その事実に基づく意思決定の過程が通常の企業人として著しく不合理なものでなかったかどうかという観点から審査を行うべきであり、その結果、前提となった事実認識に不注意な誤りがあり、又は意思決定の過程が著しく不合理であったと認められる場合には、取締役の経営判断は許容される裁量の範囲を逸脱したものとなり、取締役の善管注意義務又は忠実義務に違反するものとなると解するのが相当である。
2 《証拠略》及び弁論の全趣旨によれば、本件損失補填に至る経緯については、前記の争いのない事実のほか、以下の事実が認められる。
(一) 東京放送は野村證券の大口顧客であり、野村證券は、昭和四八年三月から東京放送と有価証券の売買などによる資金運用の取引を継続し、また、東京放送の証券発行に際しては主幹事証券会社の地位にあって、引受手数料など被告ら主張の手数料収入を得ていた。
 主幹事証券会社となると、社会的に信用を得るだけでなく、多額の引受手数料などの収入を得ることができるため、主幹事となることについては証券会社相互間で競争があり、また、いったん主幹事から外れるとこれを取り返すことには困難が伴うため、各証券会社は、証券発行を行う事業法人である顧客との取引関係の維持、拡大に努めている。
(二) 平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達は、既存の営業特金について所要の措置を取るべき期限を平成二年末までとするとともに、証券会社に対し、各年三月末及び九月末に特金勘定取引の口座数、そのうち投資顧問契約のない営業特金の口座数などの報告をするよう求めていた。
 野村證券を初め各証券会社では、この通達の主眼は早急に営業特金の解消を求める点にあると理解し、株式市況が急落する状況下で顧客との関係を良好に維持しつつ営業特金の解消を進めていくためには、損失補填を行うこともやむを得ないという考え方が大勢を占めるようになった。
(三) 野村證券の東京放送との取引担当者は、この通達が出された直後から、数回にわたり、東京放送の財務部長らと本件の営業特金の解消について交渉した。東京放送側からは、投資顧問契約を締結して特金勘定取引を継続する意思はない、当期末の決算で損失が表面化するので困っているなどという話があった。
 そこで、野村證券の担当者は、東京放送に対し損失補填をしなければ今後の取引関係に重大な影響が生ずると考え、営業特金の総点検の担当者であった被告水内に損失補填が必要である旨の報告をした。
(四) 被告水内は、この通達に従って、平成二年三月末までに営業特金を可能な限り解消する必要があるが、一方、拡大しつつある損失をそのままにして営業特金を解消することになれば、顧客の野村證券に対する信頼を失うおそれがあると考えて、それまで野村證券に多くの利益をもたらしていた顧客に対しては、将来の利益を確保するために損失補填をすることもやむを得ないと判断した。これに加えて、東京放送の営業特金については、有価証券市場が好況であった当時から損失が生じていたため、被告水内は、野村證券の提供する情報についての信用を失い、将来の東京放送の証券発行に際しての主幹事証券会社の地位を失うおそれがあることも考慮して、本件損失補填の実施を専務会に提案するに至った。
(五) 東京放送に対する損失補填の具体的な方法については、野村證券と東京放送の各取引事務担当者によって、市場や一般の投資者に影響が及ばない外貨建てワラントの相対取引による売却益をもって損失を補填することが合意された。
3 これらの事実及び前記の争いのない事実によれば、被告らが被告水内の提案に基づいて本件損失補填を実施することとした経営判断は、その前提となった事実の認識に不注意な誤りがあるということはできず、また、その意思決定の過程についても、損失補填のほかに採り得る手段がなかったかどうか、損失を補填するとしても三億六〇〇〇万円という巨額のものとせざるを得なかったかどうかなど、その合理性に疑問の余地が残らないわけではないものの、野村證券と東京放送との従来の取引関係、営業特金という形態での資金運用の実情とその解消への動き、平成二年一月以降の株式市況の急落など、当時の諸状況に照らすと、これが著しく不合理で許容される裁量の範囲を逸脱したものであるということはできない。
 したがって、被告らが本件損失補填を決定し、実施したことをもって、取締役の善管注意義務又は忠実義務に違反する行為であったということはできない。

(証券取引法違反)
証券取引法は、国民経済の適切な運営及び投資者の保護に資するため、有価証券の発行及び売買その他の行為を公正ならしめ、かつ、有価証券の流通を円滑ならしめることを目的とし(一条)、その目的実現のために、証券会社の活動に関して詳細な行為規範を定め、これを刑事罰と大蔵大臣による行政処分とによって担保するとともに、証券業協会及び証券取引所が自主的な規律を行うこととしている。この規律で損失補填に関連するものとしては、日本証券業協会の公正慣習規則九号「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」の八条(平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達を受けて同日改正されたもの)が、協会員たる証券会社は「損失保証による勧誘、特別の利益提供による勧誘を行わないことはもとより、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎む」ものと定めている(《証拠略》)が、これも明確に事後的な損失補填を禁止するものとはいえない。
 したがって、平成三年の証券取引法改正前は、損失保証の実行に当たらない事後的な損失補填については、明文上これを禁止する規定は存在しなかったのであるから、本件損失補填は同法に違反するものではないというべきである。

(独占禁止法違反)
証券会社が顧客に対して有価証券の売買などの取引について生じた損失の全部又は一部を補填することは、証券市場の担い手である証券会社が証券投資における自己責任原則を放棄し、証券市場において適正に形成された価格を証券市場外で修正するものであり、証券取引の公正性を害するものであるから、証券業における正常な商慣習に反するものというべきである。そして、本件損失補填は、顧客との取引関係を維持し、又は拡大する目的で一部の顧客に対して行ったものであるから、正常な商慣習に照らして不当な利益をもって競争者の顧客を自己と取引するように誘引するものであって、不公正な取引方法(昭和五七年公正取引委員会告示一五号)の九項(不当な利益による顧客誘引)に該当し、独占禁止法一九条に違反するものといわなければならない
本件においては、《証拠略》及び弁論の全趣旨によれば、取締役である被告らは、約三億六〇〇〇万円を支出して本件損失補填を実施しても、それにより東京放送との取引関係が維持され、拡大されるなら、長期的にみて支出金額に見合う利益が会社に得られると考えて本件損失補填を行ったこと、実際に、本件損失補填後、東京放送との取引関係が継続され、それによって野村證券が既に相当額の利益を得ており、かつ、今後も得られる見込みであることが認められる。
 したがって、これらの事実を考慮すると、本件損失補填が独占禁止法に違反するものであっても、会社との関係においては、これによって原告が主張する損害が生じたとは認めるに足りない。